【私はビーバーになりたい】 ~環境破壊者から生態系回復者へ~
【私はビーバーになりたい】
~環境破壊者から生態系回復者へ~
ビーバーになりたい。
ずっとそう思ってきた。
ビーバーは「キーストーン種」と呼ばれる。
これは、生態系にとって「特に重要な存在」という意味。
その種がいることで自然のバランスが保たれ、いなくなると他の生き物や環境に大きな影響が出る。
その想いを突き動かすような記事に出会った。
チェコで7年間も止まっていた湿地再生のダム計画を、なんと8匹のビーバーが“無料で”完成させたという。
人間が予算を確保し、土地交渉に手こずっているあいだに、ビーバーたちは、誰に言われるでもなく、自分たちのやり方で静かに工事を進めていた。
その場所には水がよみがえり、鳥が舞い、湿地が呼吸を取り戻した。ビーバーは「生態系エンジニア」と称えられ、専門家もその働きぶりに舌を巻いた。(記事要約ここまで)
やっぱ、すごいよ、彼ら。
それも何がすごいって、ビーバー自身は、湿地を回復しようとか、環境にいいことをしようなんて、たぶん思っていないこと。
ただ、自分たちが快適に暮らせる環境をつくるために、当たり前の行動をしているだけ。そのとき、彼らが頼りにしているのは、きっと「野性的な感覚」。水の流れ、風の向き、木の質感。地図もセンサーも持たずに、自然に耳を澄まし、その土地の声に従って、生きる場所を整えていく。
けれど、そんな彼らも、かつては“環境破壊者”と嫌われていた。
木を倒し、川をせき止め、洪水を引き起こすという、人間の視点では厄介者だった。
その価値が見直されたのは、ビーバーの作るダムが「湿地」を生み出し、多くの生き物(魚、鳥、昆虫、両生類)のすみかになると分かってからだ。ちょうどその頃、「湿地」は、洪水緩和・水質浄化・炭素吸収といったエコシステムを提供する重要な場所だという研究も進んでいた。
人間だって、こうやって価値感を変えられる。おかげでビーバーも見直された。
では、環境との向きあい方に関して、私たち人間はどうだろう。
誤解されていたビーバーとは違って、悲しいかな、どうも自らの首をしめる茨の道を行進中のような気がする…。
私は、都会に生まれ、都会で生きてきた。
あらゆるものがコントロールされた世界で、野生を忘れ、牙もツメも使わずに暮らしてきた。野生を忘れた生き物として、それでも、それなりの幸せを享受してきた。
だけど今はどうだろう。館山に引っ越し、少しずつ自分の中の「野生」に耳を澄まそうとしている。
たとえば、オオニシという冬の強風が吹きすさぶ数日間、人間である私もまた、外に出るのをやめ、家の中で身をひそめる。それは、人間としての判断というより、生き物としての反応に近い。
この風がやむと、私は「オオニシあけた!!」と小躍りして、外に飛び出す。その傍らで鳥たちは喜びの歌をうたう。等しきいのちとして、鳥たちと一体となって盛り上がるこの高揚は、都会では感じたことがなかった生命の喜びそのものだ。
便利さも心地よさも、私は大好き。
それを追い求めて、人間は科学技術を発展させてきた。
そして、そんな快適性を求める欲もまた、ある意味で「野生」なのだとしたら、私たちはきっと、それに本気で向き合うことが、まだ足りていないのかもしれない。
自分の中に、確かにあるはずの「自然の感覚」。
それを信じて、従って生きてみたい。
五感に加え、第六感のような「野生の勘」も総動員すれば、私たちは、この地球でさらに生きながらえるための「真の快適さ」を見出せるような気がする。何万年も、生きとし生けるものとの「共生」の中で生きてきた私たちのDNAは、その感覚を、きっと知っている。
私は、ビーバーになりたい。
ビーバーのように、自分の快が、生きとし生けるもの、みんなの快につながる存在になりたい。
みんなで一緒に、そんな存在をめざしたい。
生き物の一員なのだから、きっとそこに、たどり着けるはず。
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記事のリンク(日本経済新聞より)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOSG137QY0T10C25A3000000/
